夏休みの終わりに思う”不登校”

(note記事からの転載です。原文ママですので悪しからず、、、)

夏が終わる。
夏休みが終わる。
ミスチルの「君がいた夏」の時期。
はたまた、フジファブリックの「若者のすべて」も当てはまるか。

私は中学校をまともに通ったのは、1年生の1学期のみだ。

小学校の時は、基本的に接する大人が担任の教師だけで、その大人の言う事さえ聞いていればよかった。

しかし、中学校に入ると教科担任制となり、授業ごとに違う大人と接しなければならない。しかも、その大人は、やけに生徒にプレッシャーを与えてくる。
忘れ物をするな。
提出物をちゃんと出せ。
校則を守れ。
etc…

私は怒られるのがとても苦手だ。否定の意味が入っている言葉をかけられるだけで動揺する。人格を否定された気分になる。自分がぞんざいに扱われている気がしてとても息苦しくなる。

そういう、特性、性格がある私は中学校の威圧的な指導をする教師に、「抵抗」するために、1年生の教室があった2階のトイレの窓から身を乗り出した。
まあ、飛び降りても死なないとは思うが、その光景を見た担任の教師は、

「それをしたら”先生が”仕事を辞めないといけなくなる」

私は確信した。教師という人種の人間は多数の未熟な目下の人間を「従えている」感覚からお山の大将になっているのだと。

私はこれ以前にも、これ以降にも教師という人種の人間に何度も失望させられてきた。
だから教師をしている人間、特に学校空間内では教師を信用していない。

もちろん、全ての教師がそうだとは思っていない。「夜回り先生」で有名な水谷修氏や学校改革で有名な工藤勇一氏など、尊敬できる方々もいる。
何より、教育を担っているすべての方々に対しては一定のリスペクトをしている。

マクロ、メタに見た場合においては教師という職業は十分、感謝している。
ただ、どうしても”私個人”に対しての教師という存在はもう、トラウマ級にいい思い出はない。

で、そんな学校という社会から隔離された異質な空間で権力を握る大人や、それにひれ伏す子ども(同級生・先輩)がいる空間から脱した私は、近所の塾に週の半分通うことになった。(それ以前から通ってはいたが)
熟の生徒だったら自習スペースは使い放題だったので足しげく通ったのを覚えている。

市が用意していた、不登校生徒のための支援室にも通った。
ただ、どちらも周りの生徒と仲良くする場所ではなかったので友達はできなかった。

高校にも大学にも行きたかったので、勉強は真面目にしていたつもりだ。
1年生の3学期からは定期テストや模試だけは学校に行くことにした。
副教科はさっぱりわからなかったが、5教科はなんとか平均前後を、特に社会は満点近くは取っていた。

そうして3年間が過ぎていき、高校受験の時期となった。市内の進学校と呼ばれている私立2校と単位制定時制の公立普通科1校を受けた。
私立1校は落ちたが、それ以外の私立と公立は合格した。

そして、公立高校の方に進学するのだが、その高校は1年と少しで退学した。その話はまた別の機会でする。

ともかく、中学校3年間不登校の経験をしたのだが、今振り返ると行かなくて正解だったと思う。
あのまま無理して学校に通っていたら自分を傷つけるか、他人を傷つけるか、そもそも肉体・精神ともに健康を保っていた自信がない。

1つだけ後悔があるなら、初恋の人とそれっきりになってしまったことだ。
それだけは今でも悔やんでいる。

でで、今回の記事で何が言いたいかというと、まず、第一に言いたいのは、「死にたくなるぐらいなら学校は行かなくていい」ということだ。

人一人の命は地球より重い、とはよく言うが、たかだか6・3・3、12年程度人とは違う道を歩んだところで人生、80年、100年生きていれば埋め合わせはいくらでもできる。
逆に学校に行って死んだら、人生パーなので、埋め合わせのしようがない。だから、学校に行かなくて大丈夫。私は自信をもって言える。

世の大人はいろんな言葉で不登校の子どもを脅してくる。
勉強、社会性、勤勉性、努力。

だが、いずれも、いつでも取り戻せる。
私が生涯の学びにしようと思っている、社会学では、社会的な存在になることを「社会化」というが、その社会化は一生、死ぬまで続くと言われている。

無論、部屋に一人で閉じこもっていたら「社会化」は起きないが、公園に行く、図書館に行って本を読む、ボランティアに行く、友達と遊ぶ、親と出かける、オンラインゲームでボイスチャットをして遊ぶ、自転車でどこまでいけるか試してみる、なんでもいい、<社会>と<出会う>ことをやめなければ、いつでも成長できる。

私が心から尊敬する人の言葉で、私が大切にしている言葉の一つを紹介する。
「人は出会いによって変わる。
 けど、変わらなくても人は生きる。」

もし、これを読んだ当事者の方や、当事者の関係者の方がいたら、まず当事者には十分休息・充電することをおすすめする。

次にその休息・充電が十分にできて、ただ何もしないのが嫌になってきたら、社会的に信頼のおける相談相手をさがすのがいいと思う。おすすめは行政が用意している窓口だ。
フリースクールなんかも今は選択肢の一つになってきたし、学校に戻りたい気持ちがあるなら「適応指導教室」という選択肢もある。
経済的に許すなら、塾やオルタナティブスクールというのもありだと思う。

前に見た、演劇のセリフにこういうのがあった。
「モーツアルトやシューベルトは30代で死んだ。ベートーヴェンは50代で。そのころは、人生が短いから早く人生の路を決める必要があった。けど今は、そのころと比べたら考えられないほど長く生きられるようになった。だからゆっくりとやりたいことを決めたらいいと思う」

この世は飽くなきフロンティア。
あるいは広くも深くもある海。

出会いこそ、人生の宝さがし。

TRFの「Boy meets girl」を聞いて今日も寝るとするか。

(深夜テンションでいい加減に書きました。見苦しいかと思いますが、お許しください)